Home > お知らせ > 代表日程 > 安全保障問題について、「小沢一郎政治塾」塾長講義

安全保障問題について、「小沢一郎政治塾」塾長講義

2013年夏季集中講義(2013年9月22日)


小沢代表が塾長を務める、21世紀の日本の在るべき姿と歩むべき道筋を構想し、かつその実現を担い得る、志の高い若い人材を発掘、養成を目的とする「小沢一郎政治塾」の集中講義が開催され、最終日に小沢一郎代表が「安全保障問題」をテーマに講義を行いました。
講義要旨は以下の通りです。


【 講義要旨 】

今日は、この政治塾の集中講義の最後になるわけだが、先般、冬季の時にはちょうど安倍内閣が出来て、憲法改正、憲法改正と言っていた時だったので、憲法の話を申し上げたと思う。9条だけではなくて、もちろん色々な問題点を含んでいることは事実であるし、いろんな角度でいろんな問題を論議していくという必要があるということは、私自身もまた多くの人も認めているところであるけれども、まあ、安倍さんの言うのは何とも中身がお粗末過ぎていると思う。

それで、世間にもあまり人気がないので、最近はもう何も言わなくなってしまって、私はそういうところがいけないと思う。憲法というのは国の基本の最高法規、ルールだから、それに対して自分なりのきちんとした政治家としての、そしてまた日本のトップリーダーだから、その人が、どうも世間の受けがちょっとまずそうだというので言わなくなってしまうというのは、あれほど大上段に振りかぶってというか、強い口調で言っていたものを引っ込めてしまうというのは、ちょっとトップリーダーとしてはどうかという気がする。

いずれにしても、国民のなかなか賛同を得られないのは、やはり中身があまりにもお粗末で、9条を改正して国防軍を作るということ、そしてそれに加えて、最高法規の基本的人権を守る項目を逆に削るというだけの内容で、それをやるために96条を改正するということなので、大方の日本人が首をかしげてしまったというのが事実だと思う。
そして、憲法のことを言わなくなったら、今度は集団的自衛権の話を一生懸命、アメリカを引き合いに出しながら、あるいは今日の国際情勢の危機を引き合いに出しながら、かなり強い意識らしきものをにじませながらしゃべっているので、今日は、前回の最後に次は安全保障の話でもしようかと申し上げたと思うが、そのことについて若干触れてみたいと思う。

安全保障の問題というと、すぐ集団的自衛権がどうのと、そして北朝鮮でミサイル発射しそうだったら、それを先制攻撃できるのだとかできないとかという、そういう類いの枝葉の部分というか、ものすごく枝葉末節と言ってはなんだけれども、あまりにも個別の話だけが論議されているというのは、私は非常に、本当に危機の局面で判断するときに大きな間違いを起こすと思っている。

だから、今日はみなさんに資料も配ってあるが、まず大きな視点に立って、その本質的な問題についてきちんと頭の中で整理した上で、個別の事象についての判断をするということは何事についても大事である。今日はマスコミも入っているけれども、マスコミの諸君にも私は常に言うけれども、結局、枝葉末節、現象の部分だけ追いかけているのだ。もっと幹を見ろと。そこが分からないで現象を理解できるはずがないではないか。根本の幹をきちんと理解した上で、枝葉の部分の現象について見ていくということでなければいけない、そう言っている。

ただ、とにかく現象だけを追いかけて歩くのなら、マラソン選手でもつけていればいいだけの話で、何も学校を出た人が行く必要もない。そういうことに極論としてはなってしまうので、何事もそうだけれども、今日は安全保障の話だが、まず基本的なことを頭にきちんと入れてもらいたいと思って話をする。

安全保障というのは基本的に平和の問題である。私は、自立と共生ということを全ての基本理念の柱に立てているけれども、この共生の中身は二つある。
一つは諸国民・諸国家との共生、これが平和の問題、安全保障の問題。それから自然との共生、これが環境の問題。二つの最大の問題がこの共生という言葉に私は含まれると思っている。その一つである平和の問題、諸国民・諸国家との平和共存・共生の問題が安全保障である。

まず最初に、20世紀までの国家と国際社会というものはどういうものであったかというと、それはいわゆる近代の主権国家、すなわち独立国家と言ってもいいけれども、それぞれの主権国家がそれぞれの国民と国土と国益を守るために国の政治を行う、特に安全保障、平和を守るということになると、結局は敵の攻撃から守るということであれば、軍備、武装独立となる。それぞれの主権国家は武力をもって、敵の武力に対抗するということになるから、必然的に軍拡競争、それぞれの国家が軍備の充実に狂奔するということになり、それが戦争に繋がる。こういう繰り返しであったわけである。

この主権国家、独立国という観点から、武装独立というところにすぐに結びつけていくという議論は、今日でも見られている傾向がある。石原慎太郎さんはその代表的な人物かもしれないけれども、日本がアメリカから、中国もそうだが、侮られているのもそれだけの軍備がないからだと。だから、これと対等に渡り合うには軍備の強化が必要だと。核武装も当然行うべきだということになるのだけれども、若干、今の安倍総理も心情的にそのような風情が見受けられるが、大っぴらにそういう議論をしている代表的な人は石原さんか。

私から言うと、今なお、20世紀までの主権国家論から抜け出せないままに平和を論ずるということになるけれども、それは絶対両立しない考え方であると思っている。これが一つ。
それから、もう一つここで注意してもらいたいのは、主権国家、独立国家というのは、今のような結果になってはいけないという議論と、私は自立ということを唱えているけれども、自立国家といわゆる旧来の主権国家という言葉の感覚とは全く違うので、そこはちょっと混同しないでいただきたい。

私は、日本は自立した国家として、きちんと自らの理念と主張を持たなくてはならないと思う。もちろん、その前に日本人は自立した日本人にならなくてはいけないということになるが、それがアメリカとであれ、中国とであれ、きちんと対等にパートナーとして、あるいは隣国の友人として話すことができる国家であり、そしてまた相手方に敬意を持たれる国家になることであって、決して核武装までやって軍備を強固にしなければ自立国家ではない、あるいは対等の国家にはならないという議論は、私は非常に間違っているとまでは言わないけれども、旧来の古臭い考え方であると思っている。
ここだけちょっと、自立国家と旧来型の主権国家論との違いというものを混同しないようにしてもらいたいと思う。

この主権国家というか、主権国家論から第1次世界大戦というそれまで経験したことのない大戦争を経験して、このままではいけないと、国際協力を築き上げなければいけないということで、ご承知のように不戦条約、ケロッグ・ブリアン条約というのが締結され、そして国際連盟というのが考え出されたわけだけれども、これには結局主張していた一方のアメリカが国会で加盟を否決されてしまい、アメリカの不参加という形になってしまって、実効が上がらずに終わってしまったわけである。そういう経過をたどって、国際連合は第2次世界大戦後出来た。これは今言った、主権国家論からそれが発展し、軍拡競争、戦争へという歴史の反省のもとに作られたわけである。

国連には世界の国々のほとんどが参加している。ただ問題なのは、やはり第2次世界大戦を通じてその後に出来たので、どうしても戦勝国が主導するという形になっており、よく国連の敵国条項を改定せよという議論が出ているけれども、あくまでも戦勝国が主導する形に今なお、あるわけである。

それで平和の問題は、安保理としょっちゅう言われるが、安全保障理事会、ここの常任理事国の戦勝国である5大国である。そして、そういう特定の国が主導しているということと同時に、これまたお下がりみたいなものだけれども、それぞれの国に拒否権があるので、その常任理事国の利害に深く関わる問題については、意思決定ができないという今日の国連の状況がある。

最近の例では、シリアの例がそうである。そういうことで、必ずしも国連が本来の理想に沿った形で運営されているわけではない。国連なんか頼ったってしようがないという議論が、日本国内でもまま主張される。しかし、私は国連の構成、運営が不完全なものだからといって、これを頼ってもしようがない、また自らの国は自らの手でということに基づくとなれば、まさに主権国家論の繰り返しになってしまうので、これは歴史の時計を逆に回すものであって、不完全なものであるならば、一番平和を願っていく、平和を願うわりには何もしないけれども、平和を願っている日本が率先して国連が機能するように努力するのが、私は本来のあるべき姿だと思っている。

何もしないで、ただ不完全だから国連は頼むに足らずという考え方は、私は採らない。これは結局、後ろ向きの結果を招くだけだと思っている。
そこで、資料に国連憲章があると思う。第1条は9条との関連の時に話すけれども、国連の平和は常任理事会を中心として平和の問題を議論するわけだが、平和をいわゆる力ずくで破壊しようとしたり、あるいは破壊、侵略行為を行う国が出た場合、どうするかという問題である。

それには、日本国憲法になくて国連憲章にしっかりと書いてあるのは、第7章41条と42条である。41条というのは経済封鎖のことだけれども、経済封鎖というのは、これもまた日本では、例えば周辺事態法の時にもさんざんおかしな議論がまかり通っているのだが、経済封鎖といっても海であれば軍艦によって臨検したりするわけで、陸であればそれなりの兵力でもって国境を封鎖したりするわけなのだから、しょせんこれは強制力、軍事力を伴うものである。

ところが、周辺事態法の時も、臨検をしたり何かするのも別に軍事力でやるのではないのだと、こう言うわけである。その時の議論もあったのだが。では、普通の何もしないボートで出かけていって、「おまえちょっと止まれ」と言って、止まる船があるかというのだ。「臨検するぞ」、「じゃあどうぞ」なんて、どこの船かわからない民間の船が行って荷物を調べるなんていうことは不可能である。だから、やはり海であれば軍艦で行って、撃たなくても大砲を備えているから、しようがありません、じゃ、どうぞというということになるので、これは本当に日本では子供みたいな議論が平気でまかり通っているのだ。

馬鹿じゃないかと思うのだけれども、これは後で話すが、日本のPKOもそうだ。私が最初、国際平和の法律を作ろうとして、これが外務省や防衛庁や内閣も含めて全然腰砕けで廃案になってしまったのだが、その後、PKO法案というのを作った。まあ、おかしな法案だけれども、ないよりはいいだろうということで通したのだが、今なおその法案がある。

PKOというのはどういうものかというと、完全に国連の指揮下に入って、国連でその指揮官を任命して行うものである。国連の常備軍ではなくて、国連軍ではないけれども、その中間的なものとして平和を維持するオペレーションということで、準国連の軍事的な組織として認められたものである。だからこれは、国連が指揮官を任命する。それでその指揮のもとに行うわけである。

ところが、日本のPKO法案というのは本当におかしくて、何かの時に指揮命令権は最後は日本政府にあるという形になっていて、引き上げる時は日本政府が勝手に引き揚げることもできるという論理構成になっている。これが何か変だ。鉄砲を撃つのは個人の正当防衛の時にだけだという言い方なのだ。部隊でもって戦闘してはいけない、鉄砲を撃ってはいけないと。個人の正当防衛、そんなもの何もどこだって個人が攻撃された時は正当防衛の権利はあるのだから当たり前だけれども、平和を維持しよう、平和を回復しようという時に、軍を派遣しておいて、個人の正当防衛論を持ち出して、その時にのみ武器を使用できるという類いは全くナンセンスなのだけれども、変な理屈でもって現代の日本を象徴するような法律になっているのである。

だから、本当にこれも笑いものなのだけれども。装備も軽装備でなければいけない、軽装備というのはどこまでをいうのだと。それも全然、ああでもない、こうでもないと言って、各国が当たり前に備えている装備、必要な装備を持っていけばいいに決まっているのだけれども、一々そういう類いのことで議論が起こる。それはなぜかというと、ごまかそうと思うからなのだ。

日本は何も戦闘のために出すのではないと、仲良くみんなでうまく平和を守ろうというために出すのであってという類いのごまかしが、結局こういう変な議論を大の大人が、ましてや政府の人たちが、真面目な顔してしゃべっているということであり、本当におかしな話なのだけれども、現実の日本はそういうことになっている。

いずれにしても、41条、42条があるが、国連には常備軍がない。だから、次にそれを話したいと思うが、その都度色々な多国籍軍と呼ばれるものだったり、それが国連のお墨つきがあるかないかとか色々な問題が、アフガンでも起きているが、そういう議論を呼ぶわけである。

これからの21世紀の社会は、言葉遣いは別として、20世紀までの戦争の時代を終わらせようというような表現をする人もいるけれども、いわゆる旧来の主権国家論から脱却しないと、これをいつまでも振り回していたら国連という世界機構は機能しないし、成り立たない。その意味において私は、考え方を変えなくてはいけない、そう思っている。
これについて例えばPKOもそうなのだが、国連軍に参加するということについても、これは主権の一部を国連に委譲するものだと、だからこれはけしからんと、できないという議論はあるけれども、その議論を突き詰めると国連は成り立たない。国連憲章の理想は実行出来ないということになってしまうので、私はこういう考え方からは頭を切りかえなければいけない、そう思っている。

それから、2番目には、さっきも言ったけれども、常備軍がないから、口では何だかんだ言っても結局、41条、42条というのはなかなか発動されないということになってしまう。そこで、以前にガリ事務総長という国連の事務総長がいたが、緊急部隊の創設を提案した。当時の英国は賛成した。アメリカでも、一々全部引き受けて警察の役目を果たすのはしんどいから、むしろ国連に一定の兵力を提供して常備軍として国連でやってもらったほうがいいという意見が強かったのだけれども、結局この提案も日の目を見ないで終わってしまった。私はこのことについて、日本がやはり先導的な立場と主張をすべきだと思っている。私の主張は、明治維新の時に皇室には兵力がなかった。各国諸藩の軍はあったけれども、天皇陛下は軍事力を持っていなかった。そこで、いわゆる有力な藩がそれぞれ兵力を提供して、御親兵として明治維新政府の天皇の直属の軍隊としたわけだが、私はこの考え方が非常に今日の状況を解決するのに役立つのではないか、そう思っている。

それで、常任理事国のロシアだって中国だって、何だかんだいちいち言うけれども、国連の分担金もろくに払わないし、そういう人は本当の平和の時にはただ文句を言うだけで、自らその火消しに当たろうとしない。だから、本来は常任理事国がそれぞれ自分の兵力を国連に提供して、国連事務総長の指揮下に委ねるというぐらいの決断をしないと、本当の効果は上がらない。私はそういう意味で、日本が常任理事国ではないですけれども、積極的に、また次の話で平和部隊のことを申し上げるけれども、旧来から言っていたが、自衛隊を直接(派遣)というわけにはいかないので、平和部隊を作って国連に率先して指揮下に委ねるというぐらいの、日本は覚悟と実践をして初めて、やはり世界の国々の評価、尊敬を得られるのではないかと思う。

何もこれは、大きな部隊を作ってやれという話ではない。色々な紛争を解決するというためのものだから、通常の兵力で十分であるけれども、いずれにしても私は日本が率先してやったら、他の国が一体どういう態度をとるか、本当に興味があるが、そういうことを私は以前から、将来の日本は、世界の国々に率先して平和を守る国家としてのあり方として、示せたらいいなという気を持っている。

いずれにしても、この平和部隊というのは一時、みんな覚えているだろうか、私が言い出していろんな形で議論になった。それで、国連の平和部隊というか国連の平和維持に協力するということについては、その当時の議論でわりあい賛成の人も、今度は自衛隊と別部隊を作ってやるということについては絶対反対だという、たいしたことのない議論なのだが、そういう議論が当時起きた。私は、国連に提供する部隊というのは、今のいわゆる御親兵のような、自衛隊をそのままやるというのは近隣の諸国との政治的な問題があるし、国内にとってもよくないから、平和部隊は自衛隊とは別に作るべきだという議論をしていた。

これはちょっと申し上げると、国連の平和部隊というのは、平和維持でも平和回復でもいいけれども、日本にとって常に渡洋作戦を前提とする。海に囲まれているから。自衛隊は専守防衛だから、基本的に渡洋作戦というのはない。最近、相手を攻撃する能力を持った方がいいとかいう議論があるが、基本的に日本にあだなす者に対して反撃するというのが自衛隊だから、最初から他の国の紛争を静めに行くという国連軍は海を渡っていくということが前提になるから、自衛隊とは違った部隊がいいと。

それから今言った、自衛隊を増強するということになると、自衛隊が海外の渡洋作戦に対応できるような装備、軍備を持つということは、いくら国連のためだ、国連に提供するものだと言っても、それは直接的には中国であれどこであれ、到底うんと言わないから、そういう政治的な配慮から考えると、私はやはり自衛隊とは違った平和部隊がいいのだということをその当時言っていた。いずれにしても、そんな日が来ればいいと私は思っている。
それがまず、安全保障の基本的な考え方とその流れである。

最後に、最初に申し上げた集団的自衛権云々という、今、議論されている問題について申し上げたいと思う。
これは結局、9条の解釈ということになるのだけれども、国際紛争を解決する手段として、国権の発動たる武力の行使は行わないというのが第1項である。それから、そのための戦力は保持しないというのが第2項である。

ここの解釈なのだが、非常に抽象的な文言で書かれているものだから様々あったのだが、まず前提として、自衛権というのは、各個人にも正当防衛権が認められており、セルフディフェンス、英語では自衛権であろうが正当防衛であろうが両方同じだそうだけれども、これは、自然権として当然あるという解釈がまず前提になっている。そうでないと、もう自衛隊も何もみんな全てだめということになってしまうから。

だから、それを前提にして考えると、では国際紛争を解決する手段として国権の発動たる武力の行使はだめというのはどう解釈するかというと、私の解釈は読んで字のごとくなのだけれども、国際紛争を解決するための国権の発動たる武力の行使というのは、「国権の発動たる武力の行使」とは何かといえば、自衛権の発動ということだと思うが、自衛権の発動は国際紛争を解決する手段としては永久に放棄すると、すなわち逆に言うと、自衛権は日本に急迫不正の侵害があった場合、もしくは周辺事態法による周辺事態の場合にのみ、自衛権の発動は許されると解釈すべきだと思う。その他の日本に直接関係のない紛争のために、自衛権の行使は許されないと解釈するのが、私は9条の解釈として自然だと思う。

そうすると、自衛権の中で集団的自衛権と個別的自衛権とよく言われるが、これはいろんな議論をするのに分けただけであり、自衛権にそんな明確な違いが本質的にあるわけではないけれども、集団的自衛権と個別的自衛権について今、レフトの人は、集団的自衛権を認めると言えば、アメリカと一緒にあちらこちら地球上で戦争して歩くようになると言うし、ライトの人は、アメリカと一緒にやらなければだめなのだと言うけれども、これはともに私は自衛権というものをきちんと憲法に沿って理解していない人たちの議論だと思っている。今言うように、個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、自衛権の行使は日本に対する急迫不正の侵害、その時に限られて、国際紛争を解決する手段として自衛権の行使、すなわち武力の行使は止めますということが日本国憲法の趣旨だと、私は解釈すべきだと思う。

だから、まとめると、個別的自衛権であれ集団的自衛権であれ、日本はもちろん自衛権を当然行使できるけれども、それは今言ったように、日本が攻撃された時だけだというふうに解釈する。では、後はどうするのだということになれば、それは国際協調、国連の平和活動に日本は委ねるのだと、こういうことが私はごくごく素直な解釈だと思う。
それから、ちなみに申し上げると、集団的自衛権がおどろおどろしいようにみんな言うけれども、本当は個別的自衛権の拡大の方がはるかに危険性があるのだ。戦前、それこそ20世紀までと言ってもいいが、戦争というのはほとんど個別的自衛権の拡大解釈なのだ。日本だって全部そうだ。

上海で日本人が殺されたとか、日本の財産が損なわれたとか言って、常に出兵したわけだから。個別的自衛権の拡大で対処した方がいいと言う、偉い政治家がいたけれども、とんでもない話である。個別的自衛権ほど危険なものはない。これの拡大解釈はどこにでも行けることになる。アルジェリアにも行けるし、ペルーにも行けるし、何でも自衛隊派遣できるという話になってしまう。だから、それは戦前の過ちを繰り返すだけの話であって、個別的自衛権の解釈というのは本当に厳格に行うべきだと思う。集団的自衛権というのは仲間もあるからまだいい。こういう言い方するといけないが。一人で勝手なことをやるようになるというのが一番危険なのだ。

集団的自衛権、これはもう、どこかが日本に攻めてきて、日本とアメリカが協力してそれに対して反撃するという時に、助っ人たるアメリカの国土であれ、艦船であれ攻撃されれば、日本がもちろんそれに対して協力して反撃するというのは当然のことであって、別にそこに集団的自衛権がどうだ、こうだということを議論する余地は、私はないと思っている。当たり前のことであろう。

だから、そういうふうに割り切って考えた方がいいと思う。これを安倍さん流に言うと、占領下で作られたやつでどうのこうのという話になると、占領軍アメリカは日本の完全非武装化を当初は思ったのであろう。だから、この背景にはそういう占領軍の思惑ももちろんあっただろうけれども、しかし、法解釈というのは立法論であって、法解釈というのは立法論を入れたのではいけない。

あくまでも、その文言の解釈で行わなければいけないというのが法解釈の原則だから、当時の占領軍はどう思っていたかなんていうことを言い出したら、それは立法論の範疇の問題であるということ。これもまた混同しないようにしていただきたいと思う。
それからもう一つ、私が言ったのはまさに国連中心主義である。共生平和の理念というのは、国連を中心として理想を実現したいということなのだけれども、国連中心主義と日米同盟は両立しないという議論が、自民党やその他のライトの評論家や何かの人から出ているが、これもまた全く無知でナンセンスな議論である。資料に日米安保条約があるであろう。日米安保条約も国連憲章にのっとってその骨子は、条文は作られている。その国連憲章の部分を抜粋しておいた。

それで、日米安保の10条に国連が何らかの、言葉遣いは正確には覚えていないけれども、国連が何らかの決定をした場合には、日米の共同作業はそこで終了すると、前の安保条約はそうなっていたけれども、今はそれを妨げないとか逆の表現になっているが。日本に対する攻撃、紛争に対して国連が何かの決定をした場合には、日米の共同作業、共同作戦は終わるということになっている。国連に委ねるということになっている。要するに、何か紛争、戦争が起きても国連が意思決定するまではタイムラグがある。だから、それまではそれぞれの国が、これも条文にあるけれども、集団的・個別的自衛権を行使して敵に反撃しなさいというのが国連憲章にあるのだ。だから、日米安保は国連が何かを決定した時には、日米の共同作戦はその時点で終了するとなっている。何も国連中心主義と日米安保が矛盾もしなければ何もしない。安保自身が国連憲章の精神に基づいて条文が作られているのだから。だから、全くその意味ではこれまたおかしな議論だと私は思っている。

そういう意味で、私が何か割り切ってつべこべ話をしているけれども、それでは具体的な現象はそんな簡単なものではないという議論もあるかもしれないが、具体的な現象は複雑に決まっている。いろんな森羅万象、何が起きるかわからない。いろんな複雑な変なことがいっぱいある。だからこそ、基本の原則をきちんと守っておかなければだめなのだ。その基本の原則がふらふらしていたのでは、判断のしようがない。基本的な考え方がきちんとしていて枝葉末節、現実の森羅万象に対応するというのが、私は正しいあり方だと思っている。

以上、終わります。